投稿日:2014年11月17日|カテゴリ:院長コラム

 昔、さだまさしのヒット曲に「無縁坂」と云う歌が有りました。♪運がいいとか悪いとか人は時々口にするけど、そういう事って確かにあると母を見ていてそう思う・・・♪、と云う様な歌詞でした。昔はそれほど気にしては居ませんでしたが最近になってつくづくそう思います。今、大河ドラマも佳境に入り、黒田如水が東西両軍の激突の合間をぬって天下を狙おうとする筋書になるのでしょうが、関ヶ原が一日で決着したのは両軍にとっても如水にとっても計算外だったかもしれません。ただ九州には東西第一の弓引きと秀吉に評価された、西軍の立花宗茂が東軍を平らげていましたし、島津の勢力も温存されていました。今回の大河ドラマでは、石田三成を悪役として表現していますが、以前の大河ドラマ、直江兼続(妻夫木)主演の三成(小栗)の三成の方が真実に近いと思っています。”直江状”は小気味よかったですね。関ヶ原での決戦は西軍が東軍をうまくそこに導いた事が明らかになっています。南宮山には初めから毛利軍を配していましたし、同じ毛利勢の小早川は松尾山に早くから陣を作成させていました。どう見ても西軍が勝利する陣容でした。徳川秀忠の3万の軍勢の到着が遅れたとはいえ、西軍でも伊勢路を北上してくる3万の軍勢、大垣で足止めされていた3万の軍勢、しかも毛利輝元を総大将とする5万の大軍さえも大阪城で足止めされて、11万もの西軍が到着していなかったのです。豊臣方としては何と不運な事だったのでしょうか。それでも三成は決着できると判断して開戦しましたが、事も有ろうに、一時豊臣家の後継者と目された小早川秀秋が裏切り、さらに毛利輝元、安国寺恵瓊などの意志と異なり、家老格の吉川広元は家康と内通し軍を動かさず、西軍はさんざんでした。戦後毛利は吉川の密約はホゴにされ、小国に格下げされてしまいました。小早川秀秋も狂い死にしました。それにしても宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継など奮戦した武将が可愛そうになります。逆に家康には幸運が転がり込んで来ました。家康が勝利をおさめた事は当たり前の様に思っている方がおられるでしょうが、三成がこれだけの大軍を結集できたのは家康にとって大誤算だったのです。また、徳川勢の討伐軍を万全の計画で待ち構えていた上杉ー佐竹連合軍6万の軍勢は何と徳川を追撃し、江戸城を包囲しなっかたのです。家康には幸運が舞い込んできました。上杉軍は背後の伊達氏にも守りを固めての出陣でしたから、戦上手の上杉軍に寄せ集めの徳川軍は敗れたと思います。豊臣家を裏切った、武将たちは三成を排除する事を考え、また秀頼を助けようなどとは、加藤清正以外は考えておらず、初めから、家康を天下人と考え、そちらの方に賭けたのです、秀吉の正妻ねねでさえも。初めから豊臣を裏切るつもりだったのです。秀吉は幸運に幸運が重なったような、毛利との和睦が成立して、”中国大返し”が実現して、明智光秀に勝利し、天下人に駆け上りました。一方、光秀は再三連歌の会を催して細川藤高と信長打倒、足利将軍復活を計画していましたし、光秀の重臣、斉藤利三の妹の嫁ぎ先の長曽我部攻めを阻止しようとしていた所に”敵は本能寺にあり”と云う幸運が転がり込んだのですが、その後が不運で、あれだけ同盟を結んだ細川藤高が裏切り、味方につかなかったのです。驚きですね!。家康は対抗する諸大名をあぶりださせようと、わざと三成に挙兵させましたが、実際は大誤算で、三成ー毛利輝元がこれだけの大軍を集めたことに冷や汗をかき、一時江戸城にくぎづけとなり、先発隊が待つ、大垣に進軍できませんでした。しかし歴史は奇なるもので、何と家康が天下を取ってしまったのです、これを幸運と呼ばず、何と呼べば良いのでしょうか。敗れるはずの家康が勝ってしまったのです。でもこれで戦国は終わり太平の世の中が到来したので良かったのかもしれません。
 大河ドラマを見ていてもこれだけの幸運、不運が織りなしています。これは現在も同じで、我々は運、不運に振り回されて生きているのです。自分の人生もそうでしたね、皆さんもそうでしょう?。